良い(健康的な)考え方とは?

良い(健康的な)気の持ちようとは?


考えなくてはならないのは、

今、目の前にあることだけ。

目の前にあることに集中して!

 

死んだ気になる、気が狂う、気がふれる、気を悪くする、病は気から、気を失う、気の毒、気が重い、気が気でない、気をもむ、気が沈む、気に障る、気が抜ける、気が落ち込む、気がそがれる、気に食わない、気が知れない、気が散る、気が遠くなる、気を吐く、気を取られる、気が乗らない、気が進まない、気が短い、気にかかる、気が緩む、気が遠くなる、気が立つ、気兼ねする、気が散る、気が小さい、気が早い、気が急ぐ、気になる、気にとめる、気が変わる、気がはやる、 気になる、気が合う、気がある、気が多い、気が大きい、気が置けない、気が済む、気が長い、気が張る、気配(けはい)、気配り、気が晴れる、気がある、気に入る、気に留める、気を砕く、気を紛らす、気を許す、気を遣う、気が若い、気を楽にする、気を確かに持つ、気が利く、気が回る、気の持ちよう、気がつく、気を良くする、気を配る、気を入れる、士気、元気...

 

”気” を使う表現って、どうしてこんなに多いのでしょうか...

 

何かに夢中になっていると、嫌なことや痛いことも忘れてしまいます。暗くなって思い悩めば思い悩むほどつらくなります。でも明るく振舞えば気も楽になります。

 

”気” の持ちようで人生がばら色にも灰色にもなります。

 

いかにストレスなく過ごせるか...

 

考え方、気の持ちようはそれだけ人生に大きな影響を与えます。健康三原則の中でも最も大切で、影響力が一番強いものです。

 

 

元気は気の元!

 

 

気の持ちようで、病気も治ってしまいます。

 

同じ人生、思い悩まずに気楽に考えましょう。思い悩んでも、気楽に考えても、結局は同じです。出てくる結果に影響はなさそうです。

 

だったら気楽に考えて楽になった方が得です。 思い悩めば自分が損をするのです。

 

大事なポイントは、やはりポジティブ思考です。TVの番組で100歳を越えてもピンピンした方々が、毎回一人ずつ登場してインタビューを受ける番組がありました(今でもある?) が、そういう100歳以上の方々からアンケートを取ると、その答えに共通点が見られるそうです。

皆さん例外なく明るくて前向き、後悔をしないそうです。そして何かよくない結果が出た時の責任を外に求めません。

 

天気が悪いから、景気が悪いから、嫁が悪いから、姑が悪いから、あいつが悪いんだ...等です。

 

起こったことを素直に受け止められるようです。そこで一度よく考えてみてください。起こる前のことと起こった後のことの両方は、実はどうにもならないことであることに気が付きます。それにもかかわらず、その二つのことでついつい悩んでしまいます。

これから起こることに関しては神様にしか分かりません。計画を立ててコツコツと進めたり、打つべき手を打っておくことは勿論必要ですが、それでも結果がどうなるかは神様だけにしか分からないことです。

 

ポジティブシンキングでいい結果が出ることを想像するのもいいでしょうが、その場合もし違った結果になると落胆度が大きくなる可能性もあるので、どんな結果が出るかを考えないのが一番いいのです。

 

悪い結果が出るかもしれないと思い悩むのが一番よくありません。それでは落ちる可能性のある飛行機にも乗れなくなってしまいます。あるいは今乗っている飛行機が落ちたらどうしようかと、飛行機に乗っている間にずっと考え続けているのがいいのでしょうか。

そうはいってもケースバイケースでついつい先のことを考えてしまうのは当然のことかもしれませんが、そのことを考えている自分に気が付いたらすぐに何か別なことに考えをスイッチしてそれに集中してみるのです。

 

もし何か嫌なことがあった時、例えば何か嫌な思いをさせられて、相手に対して不満が発生します。相手から謝りの気持ちを求めてしまいがちです。でもそういう時はただ単に、そしてなるべく早く忘れてしまうのが一番です。

 

そこで相手の理解を得ることなど到底無理とあきらめて、関わる時間をなるべく少なくした方がはるかに得です。合意がみられないからこそ問題が発生します。そうしないと、そのことについてついつい考えてしまい、暗い気持ちになってしまい、貴重な時間を失い、損をするのは自分の方です。

 

そして起こってしまったことですが、これもどうにもなりません。歴史に、“If(もし)...” という言葉は意味のないことだとよく言われますが、こればかりは神様でさえもどうにもなりません。過去は神様にも変えられません。だとしたら、過去のことについても、どうこう考えても意味がないことです。

 

 

反省の材料にして、将来似たケースが出た時に反省を生かすというのなら分かりますが、どういう結果が出てくるかの想像と同じように、なるべくそのことを考えずに少しでも早く忘れるのが一番です。

 

反省はOKですが、後悔はNGです。何か思い通りの結果が出なくても、それをいつまでも悔やんで後悔しても、一番損をするのはその本人自身です。さらにはそのことで周りにも迷惑がかかります。これほど無意味なことはありません。もっとよくないのはその責任を外に求めてしまうことです。

 

過去、現在、未来の内、過去は神様でもどうにもなりません。そして未来は神様にしか分かりません。

 

たった一つだけ残った、自分(人間)にもどうにかなるのは何でしょうか。

 

そうです、今現在だけなのです。

 

つまり今現在のことを精一杯考えて行動するしかないのです。

 

過去について究極して言うと、何か悪い結果が出てしまった時などに、その責任を全て自分に求めてみると、非常に楽になって全てが丸く収まり、他の人とのいざこざも出ません。ことが思った通りに進まなかった時、それを全て自分のいたらなさのせいにしてみてください。

 

「クソ~!」と腹が立った時に、「誰が悪い?」と心の中で聞いてみてください。そうすると、「自分が悪い...」という答えが出てくるはずです。そうです、全て自分が悪いのです。

 

ものさし

 

今現在のことに関しても、実はものごと全て見方次第、考え方次第です。人はみなそれぞれが違った物差しを持っています。だからこそ、いざこざも起こります。出た結果を良いと思うのも自分自身。まあまあと評価するのも自分。そして悪いと判断するのも自分です。

物の色というのは、そのもの自体の色ではなく、そこに当たる光によって始めて色が表されます。同じ物を見ても、昼間見る色と、夕方、夜見るのでは色が違います。サングラスをかければさらに違う色になり、光がなければ色も何もありません。

 

考え方も同じように、人それぞれで違いますが、結局は自分自身で色々と変えられるのです。出た結果をポジティブにみて明るくなるのか、ネガティブにみて暗くなってしまうのか。

 

お日様が出るといい天気、そして雨が降ると悪い天気と普通はいいますが、本当にそうでしょうか。植物にとっては大事な雨もいい天気です。植物なしの地球はあり得ませんから、そういう意味では人間にとっても雨は、本当はいい天気ではないでしょうか。

 

自分の物差しで物事を計る、つまり物事をどうとらえるかは、自分が勝手に決めることなので、何かをする時にそれをできるか、できないかと決めるのも自分です。もし何かをできないと思う時は自分で勝手にそう思って壁を作ってしまっていないでしょうか。

 

過去の数多くの聖人、偉人たちも、自分が思い描くこと、思い続けること、言い続けることが、実現につながると断言しています。だから何かを達成したい時は、できないと思って自分で勝手に自分の前に乗り越えられないような幻想の壁を作るのではなくて、計画を立てたら過去と未来を考えずに一日一日に集中して進んでいくことが大事です。

  

お釈迦様も、色をつける(どう評価するか)のは自分自身であるといわれたそうです。出た結果を悪く取らずに素直に受け止める。そして必要ならそれを将来に役立てる。悩みとは、自分のくだらない欲があるから現れるものですから、欲をなくせば悩みもなくなるわけです。

 

身長が低いとか、あるいは逆に大き過ぎるとか、頭髪が薄いとか、美人でないとか、何か欠点があるとか、いろいろとありますが、変えられないものはどうにもなりません。

 

身長を高く見せようとか、低く見せようとか、フサフサな頭髪が欲しいとか、美人になりたいとか、あの人はこうした方が絶対に良いとか、意味のないことは考え ずに、それを素直に受けとめてしまって、自分の無駄な欲をなくせば、つまりそれに不満を持たなければ、悩みもなくなるわけです。

 

よく考えてみれば、それらは元々どうやっても変えることができません。変えることができないことを変えたいと望む欲は意味がありません。意味のない欲で悩むのも、これまた意味がありません。だとしたら最初から欲せず悩まずです。

 

物の色というのは、そのもの自体の色ではなく、そこに当たる光によって始めて色が表されます。同じ物を見ても、昼間見る色と、夕方、夜見るのでは色が違います。サングラスをかければさらに違う色になり、光がなければ色も何もありません。

 

考え方も同じように、人それぞれで違いますが、結局は自分自身で色々と変えられるのです。出た結果をポジティブにみて明るくなるのか、ネガティブにみて暗くなってしまうのか。

お日様が出るといい天気、そして雨が降ると悪い天気と普通はいいますが、本当にそうでしょうか。植物にとっては大事な雨もいい天気です。植物なしの地球はあり得ませんから、そういう意味では人間にとっても雨は、本当はいい天気ではないでしょうか。

 

自分の物差しで物事を計る、つまり物事をどうとらえるかは、自分が勝手に決めることなので、何かをする時にそれをできるか、できないかと決めるのも自分です。もし何かをできないと思う時は自分で勝手にそう思って壁を作ってしまっていないでしょうか。

 

過去の数多くの聖人、偉人たちも、自分が思い描くこと、思い続けること、言い続けることが、実現につながると断言しています。だから何かを達成したい時は、 できないと思って自分で勝手に自分の前に乗り越えられないような幻想の壁を作るのではなくて、計画を立てたら過去と未来を考えずに一日一日に集中して進ん でいくことが大事です。

お釈迦様も、色をつける(どう評価するか)のは自分自身であるといわれたそうです。出た結果を悪く取らずに素直に受け止める。そして必要ならそれを将来に役立てる。悩みとは、自分のくだらない欲があるから現れるものですから、欲をなくせば悩みもなくなるわけです。

 

身長が低いとか、あるいは逆に大き過ぎるとか、頭髪が薄いとか、美人でないとか、何か欠点があるとか、いろいろとありますが、変えられないものはどうにもなりません。

 

身長を高く見せようとか、低く見せようとか、フサフサな頭髪が欲しいとか、美人になりたいとか、あの人はこうした方が絶対に良いとか、意味のないことは考え ずに、それを素直に受けとめてしまって、自分の無駄な欲をなくせば、つまりそれに不満を持たなければ、悩みもなくなるわけです。

よく考えてみれば、それらは元々どうやっても変えることができません。変えることができないことを変えたいと望む欲は意味がありません。意味のない欲で悩むのも、これまた意味がありません。だとしたら最初から欲せず悩まずです。


お釈迦様は約束をしない方がいいとも言ったそうです。約束というのは将来のこと。そして将来は何が起こるかわかりません。つまり約束をすればするほど縛られてしまうことになります。約束は果たせて当たり前で、それ以上はあり得ません。つまりどんなに頑張っても最大限である約束が実行できて普通、ところがそれができないと嘘つきになってしまいます。 

何が起こるか分からない将来の出来事に対して、今の時点で決めてしまえば守れない可能性が出てくる方が、守れる可能性よりはるかに大きいのは当然です。さすがお釈迦様ですが、約束や有言にはそういった理由で本当はかなり高いリスクがついてまわるのです。 


有言実行はいいことですが、無言実行は楽です。無言無実行は放っておいても、残りの有言無実行は単なる嘘つきとなってしまうのでご注意下さい。誰でもついつい人間はその場その場のかっこを良くするために、自分のできる最大限に近い方のことを言ってしまいます。

 

だから約束をしなければいけない時は、精一杯余裕を持たせることが大切です。あるいは約束をしないのが一番です。安請け合いは、自分の信用を落としてしまうリスクなのです。リスク大です。最小限くらいを言った方がいいのです。

 

どこかで人が待っている所に向かう時に、余裕を持たせた時間を伝えるということがなかなかできません。1時間くらいで行ける所の場合、人が待っているから長く待たせ(る印象を与え)てしまっては悪いと思って、良くて1時間、へたをするとついつい50分くらいとか言ってしまわないでしょうか。

 

1,5時間と言える人はめったにいないと思いますが、1,5時間と言っておいて1時間で着ければ好印象を与えられます。1時間でいける所に1時間で行けるのは無限のようにある可能性のうちのベスト、最大限です。ワースト、最小限の行けないとの間には、1時間10分、1時間20分、1時間30分...等、いろいろとありますが、1時間が一番難しいわけです。

 

 

誰でもみんな、それぞれの壁を持っています。でも一部の世界級アスリートなどを除けば、そのほとんどはその壁を自分で作ってしまっています。

世界級アスリートのそれは、今を生きる人間の限界際にいるので、間違いなく人間の壁ですが、一般の人の壁は全く違います。

(人間に秘められた能力という点では、脳の不思議を是非ご覧ください)

何かをするかしないかの時、できなかった時に、できない理由や言い訳はすぐに、いくらでも出てきます。でもそうではなくて、どうしたらできるかの理由を探した方がはるかに良いのです。

できない理由を出すのはかなり簡単ですが、その逆は簡単ではないので、人間は易きに流れる生き物で、ついついそうしてしまいます...

どうしたらできるかを常に追い求めていると、意外と出てくるものです。そしてそれを癖にしてしまえばこっちのもの。以前の、いくらでも出てくるできない理由のように、どうしたらできるかの理由もいくつでも出てくるようになります。

そうすると、そこにあったはずの壁はなくなってしまいます。

「人づきあいが得意でない...」という人が結構いるようです。

でも一体本当にそうでしょうか? それはただ単に自分で勘違いしているのではないでしょうか?

単に自分の前に、自分で壁を作ってしまっているだけではないでしょうか? そういう人が世の中の大半です。
 
私も若い頃は自分のことを、引っ込み自案で、話しべたで、人見知りで...とずっと思っていました。赤面症です。

でも驚いたことに実際は違いました。単に自分で作ってしまった壁だったのです。そしてそれがなくなって自然になると、めちゃくちゃ楽になります。身構えるとストレスもたまり、健康にも良くありません。
何かの理由で人前に出ることを躊躇しているのなら、その欠点を逆にわざとさらけ出してしまうのです。そうするとあら不思議、周りの人たちから愛着を持たれ、好かれるようになるのです。
 
自分が持っている引け目や欠点とは、自分が勝手にそう思い込んでいるだけで、周りの人にとってみればかわゆくて愛すべき点となるのです。(傲慢な人は別です)

もし欠点があるのなら、(単なるその勘違いの)欠点を時々は本当に、そして時々は、「あっ、わざとやってるな...」と思われるくらいに出すのがちょうどいいのです。

どんなに偉大な人でも、弱点・欠点はあります。でももしそれが見えないと、尊敬はされても好かれません。弱点・欠点があるからこそ人は好かれます。

万物に長短共にありで、短所だけのものはこの世に存在しません。それに長所はひっくり返せば短所。短所はひっくりかえせば長所です。だからこそ神は好く対象ではなくて、敬う対象です。


コミュニケーション

 

世の中人間が一人で生きていけないのは当たり前のことですが、その場合何が大事でしょうか。コミュニケーションです。コミュニケーションとは人と人がつながることです。

 

生き物は元々、その両親がつながって出てきたものですが、生き物にとってつながりとは、切っても切れないものです。コミュニケーションとは、人間が生きていくのに絶対に欠くことのできない空気、水、食べ物のレベルを除けば、その次位にくる大事なものです。

ロビンソン クルーソーとかのお話しなら別ですが、この世でひとりっきりで生きている人間は普通いません。つまり誰でも必ず誰かとお話しや電話、お手紙、メールなどでコミュニケーションをします。障害があってお話ができない人も何かの方法で必ずコミュニケーションをしています。人間だけではなくて動物もします。一部の学者さんの間では植物もするといわれています。

 

コミュニケーションにとって重要となるのは質の高さです。英語などの外国語での会話に限らず、同じ日本人同士の間での日本語のやりとりでも、世代や育った環境、家庭、教育、経験や体験、本人の好みや興味、趣味などの違いがあるので、ひとりの人間が思ったことを別の相手に伝えて、それを完璧に分かってもらうというのは至難の技なのです。

 

まずは情報の発信者がその思いを本当に100% 正しく表現できたかどうかから始まり、仮に表現(送信)が100% 正しかったとしても、今度は相手がそれを聞き間違い、読み間違いなどなく100% 正しく受信してくれたかどうか分かりません。

もし仮に、メッセージを正しく受信してもらえても、今度はそれを思った通りに理解してもらえるかどうかは分かりませんし、理解の仕方も十人十色です。だから、言った、言わない、聞いた、聞かないのトラブルは世の常です。 

 

そこで誤解というものが多発しますが、それを埋め合わせるにはそれだけ多く話し合うしかありません。”話せば分かる”とはよく言ったものです。そこで忘れて ならないのは、人間には誰にでも”言いたい欲” があるということです。その”言いたい欲” が、スムーズなコミュニケーションを妨げます。

 

ある二人の間で議論されている内容を良~く聞いてまとめてみると、結局二人とも同じようなことを言っている、意味しているのにもかかわらず、どういうわけか、平行線の口論になってしまっていることがあります。それは、”言いたい欲” が邪魔をしているからです。

 

ある情報を伝えるという目的が、その目的を達成するための手段であるコミュニケーションの最中に、”言いたい欲” に邪魔されて目的が入れ変わってしまいます。議論に勝って友(あるいはお客さん)を失ってしまっては意味がありません。

コミュニケーションには面と向かって話す方法、電話で相手の顔や様子がわからずに話す方法、そしてメールや手紙の文章による方法がありますが、どれも一長一短です。


昔の小学校では、メールの一番最初に書く受け取り人の名前の後に ” を付けるように教わりましたが、最近数人の友人知人から、様はやめて下さいよ(笑)!と書かれてしまいました。水臭いじゃないですか(笑)!” というわけです。

 

ですがそれは別にへりくだったりしているわけではなくて、昔そのように学校で習って以来の長い習慣で自然にそうなってしまっているだけです。面と向かってお 話をする時を基準に考えると、電話の時にはそれより丁寧に話す。そして手紙の時はそれよりもさらに丁寧に書く。学校でほとんど勉強しなかった落ちこぼれの私がなんでこんなことだけ覚えているのでしょうか。

 

面と向かって顔を見ながら話す時は、自分の言ったことにたいする相手の反応がうかがえます。表現や説明が不適切だったりして、もし相手が納得のいかない思いをすれば、相手の様子でそれが何となく分かります。

 

だからすぐに謝まるなりのフォローをすることができますが、これが電話となると相手の顔が見えないので、場合によってはまずいことを言ってしまったのに気がつかないなどということもあります。

 

そこで電話の場合は面と向かって話す時よりも丁寧に話した方がいいわけです。さらに手紙の時には受取人に、差出人の口調や思い、雰囲気さえ分かりません。


そして、手紙、メール、Fax、電話のそれぞれに求められている返事のスピードですが、電話は当然のことながら即答となり、手紙は数日~数週間、あるいは数ヶ月となります。


ではメールの場合はどうでしょうか? 電話と手紙あるいはFaxの間に入らないでしょうか? つまり、できればその日か翌日~数日のレベル。

本当に伝えたいことをその雰囲気や気持ちまで文章で伝えようとすると大変な文章の量になり、細心の注意も必要になり、文法などの文章の完成度の問題も出てきます。

 

もし人に何かを伝えようとする時に、仮にそれが話せば簡単なメッセージでもそれを文章にしようとすると大変苦労するのはそのためです。

 

インターネットの普及で知らない人同士が簡単につながるようになりましたが、トラブルも多発しているようです。ひょっとしたら最近の若い人達の間ではそれらの点の考慮が十分ではないのかもしれません。

 

昔の小学校で習った、手紙の最初の名前には様を付けるというのは、知り合いや友人関係の間では水臭いと思う人も多いのかもしれませんが、親しき仲にも礼儀ありです。

 

でも面と向かって話している時でも本当は要注意です。時と場合によりますが、お互いに勘違いしていて、思ったことが全然伝わっていないということも よくあります。日本人同士の面と向かった日本語でのコミュニケーションですらそうですから、例えばそれが英語によるドイツ人とのコミュニケーションとかに なると、果たして一体どの位本当に思ったことを正確に伝えられるのでしょうか。

 

以前面白いTV番組を見たことがあります。ある猿の集団の中の一匹の猿に、猿の着ぐるみを着た人間が近づいていく実験でした。最初は怒った顔の猿のお面、次には笑った顔、最後には悲しそうな顔の猿のお面をつけていました。


つまり近づかれる猿にとっては集団の猿以外の見知らぬ猿が、3種類の違った表情で順番に接近してくることになります(中が人間なので猿にとっては元々怪しいでしょが)。

怒った顔のお猿さんのお面をつけて近づこうとした時は猿がすぐに”キー、キー” と叫んで敵対的行動に出ました。


そして悲しい顔をしたお面だとほとんど無視。笑った顔も似たようなものでした。表情が相手に与える印象が大変大きいことが良く分かる実験でした。

 

人間の場合でも全く同じことがいえます。険しい表情で向かえば相手もどうしても身構えてしまいますし、微笑んで近づけば微笑が帰ってくる可能性が高く、仮に微笑が帰ってこない場合でも最低でも無表情は期待できます。

険しい表情で敵を作りやすくする方が良いのか、微笑んで味方を作りやすくする方が良いのか、どちらが良いのかの答えは簡単です。より多く微笑んでより多くの味方を作った方が楽しい人生を送れます。

 

大事なコミュニケーションの最中に自分の顔がどうなっているかをその都度考えてみたいと思います。何人もの賢者はそれを鏡の法則とか、投げたものが帰ってくるブーメランの法則と表していますが、全くその通りです。

 

ところでコミュニケーションの際には、情報というのは出せば出すほどいい効果が現れると思います。情報があふれている現在は情報の過密状態なので、その情報をキャッチしてもらえるかどうかは別として、情報がなければ思いは伝わりません。

 

種をまかなければ芽は決して出ません。種をまいたからといって芽が出るとは限りませんが、種をまかなければ芽は(その地中に最初から埋まっている種が出てくるのを除けば)絶対に出ないのと同じです。

 

困っている時や苦しい時、人は普通その情報を隠す傾向にあります。恥ずかしいと思うからでしょうが、実際には自分が恥ずかしいと思うほど人は気にしていないものです。


もしその苦しい立場の情報が伝わると、助け舟を出してくれる人が現れる可能性が出てきますが、知られなければその可能性も生まれようがありません。

 

そしてその反対に、良いことの情報も、自慢にならないように気をつけて単なる情報として出せば、さらにそこから良い相乗効果が出てくる可能性も生まれます。

自慢にならないように気をつけた方が良い理由は、悲しいかな人間には人を羨む気持ちがあるので、自慢というものには普通いい反応は期待できません。

 

ところで最近情報という漢字は、青い心(つまり新鮮な心)が幸せを返すと書くように思えてきました。

 

新鮮な心で情報を取り扱えば幸せが返ってくるのではないでしょうか?日本の漢字は日本で独自にできたものもあるでしょうが、オリジナルは3500年前位頃から中国で作られ始めたそうです。

 

れは天下の大聖人達の誰もが誕生する前。中国はすごいものを作ってくれました。夢が叶う時の叶うは、十回口にしていると叶う、と書くそうですし、信じ(させ)る者が儲かり、忙しいという字は心を亡くすと書くそうです。

 

ここ最近スマホやアイフォーンでメールのやり取りやインターネットのアクセスも自由自在ですが、そういう機器の影響で生活スタイルというか、生活の姿勢が少し変わってきてしまったような気がします。

 

以前は人前で携帯電話の受信を受けるのは目の前にいる相手に対して失礼でしたが、今ではわりと気楽に受けてしまう傾向にあります。数人で集まっている時も、その中の誰か(ひどい時はわずか数人)が、メールの(? あるいはフェースブックの?)チェックをしている姿を頻繁に見かけます。つまり皆が納得済みでやっていることのようです。 

 

 

本当に大事なもの

 

世界中のビジネスマン・ビジネスウーマン達も、アイフォーンやスマホを使ってミーティングの最中でも入ってくる情報をチェックして返事まで書いているようです。


でもそれは本当に正解でしょうか。過去と将来のことを考えても意味が無く、今現在のことだけを考えるのが良いのと同じように、今現在目の前にいる人・事を大事にする方が良くな いでしょうか。

 

その理由もごく簡単。誰かと話し合っている時に何かの連絡が入ってくるとします。その連絡の発信者は、受信者が現在どういう状況下にいるのか分かりません。つまり、今すぐに答えても後で答えても相手に与える印象の差はほとんど無く、しかも時差のごまかしさえ利きます。

ところが、今現在目の前で話している人は、相手の姿がそこにあってよく見えます。今その場 にしかいません。つまりごまかしも利きません。


親族の交通事故や危篤の知らせなら分かりますが、そんなものは頻繁に入るわけでもないのに常に通信機器でス タンバイして応じるということは本当に良いことなのでしょうか。


なぜ人は生まれてきたのでしょうか。世界三大聖人たちによると、残念ながらその理由はとくにないそうです。それなのにその理由を探そうとするから人はみな悩み苦しむのだそうです。

 

でも私にはその理由は最低ふたつはあるように思えます。ひとつは成長することだと思うのです。きわめてまれな特別の病気などを除いて、生まれてくる生き物で生まれた後に成長しないものはありません。どんな生き物も、生まれてから成長します。


だから全ての生き物は成長するために生まれてきたと思うのです。但しその成長にはいろいろなタイプがあり、成長が大きいもの、小さいもの、早いもの、遅いもの...  ただ単に成長が早ければ、あるいは大きければ良いというものでもないと思いますが、どんなに遅くても、必ず成長はします。

 

自分に合ったマイペースで確実に成長すればいいのではないでしょうか。だから自分はなぜ生まれてきたのかと悩む必要は無く、一日一日、目の前にいる人・物・事を大事にして、それだけに的を絞って淡々とこなして前進していけばいいのではないでしょうか。

 

長い人生、時には後退しているように思える時もあるかもしれませんが、長いスパンで見て総合的に成長すればいいのだと思います。スポーツでも勉強でも仕事でも何でも、ちょっと頑張って上達すると誰でも大変嬉しいのは、生き物として、生きる目的である成長を喜ぶ本能が喜んでいるからではないでしょうか。

 

神様でさえもどうにもできない過去のことに、

どうしていつまでもこだわってしまうのでしょうか...

 

神様にしか分らない先のことをどうして心配してしまうのでしょうか...

 

分かったようなことを色々と書いてすみません。でも実はこれ、決して私がマスターできたから貴方・貴女もどうぞとかいうようなわけではなくて、何とかマスターできるようにと、常日頃、自分自身に言い聞かせ続けていることなんです...